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ステレ6(越智道雄)

 まさに「戦火の渦中から生まれた民主主義」そのものですね。祖国防衛が独裁者の強制ではなく民衆の意思によってなされたからこそのアテナイ民主主義──そのために民衆は命をかけたわけですから、強固な礎が築かれたことでしょう。しかも、理想的な指導者がその場に居合わせた。とっさの機転で大混乱を回避、あまつさえ冷静に極めて有効かつ犀利な軍事編成をやってのけ、おまけに戦後はその編成を平和時の政治的インフラに転用したクライステネスは、あくまで権力の誘惑に屈しなかった。いや、後世のカエサルも、カリアでの鮮烈な勝利ゆえに元老院の脅威となり、半ばやむをえずルビコンを渡った──つまり、ある程度は独裁者への道をやむをえず選ばざるをえなかったことを思えば、そういう脅威をアテナイ民衆に与えることなく改革を推進できたクライステネスは、どんな人物だったのか? 逸話が残っていないことは残念至極です。

 逆に言えば、外敵の侵攻というどさくさがなければ、クライステネスといえどもこれだけの抜本的改革はやれなかった。3地区の融合的改革の図式は何年も前から彼の脳裏にできあがっていたのでしょうね? そして軍事編成にも活用できることは計算ずみだったのでは? いくら何でも、とっさにこれだけの改革手順をどさくさの只中で組み立てることは無理でしょうから。「名誉ある右翼」の部署を10部族で順番に交代させたのはとっさの機転だったかもしれないけれども、一筋縄ではいかない民衆の多様な心的傾向を熟知していたはずの彼としては、それもあらかじめ想定していたという気がします。

 そんな気がするのも、前に触れた「六日戦争」(1967)との相似です。貴兄のこのステレ冒頭の、侵攻に際してアテナイ人たちが各地域から馳せ参ずる光景は、「六日戦争」を連想させずにはいません。イスラエルの指導者たちは、積年の辛酸から十重二十重に敵国群に取り囲まれた自分たちの独立国家を守り抜く算段をかねてからシステム化していました。この戦争の鮮烈さの一端は私の前のステレで触れました。

 また、3地区の「融合(アナミクシス)」については、私のステレ5で簡単に触れた、そしてステレ7でやや詳しく触れるアメリカの地域文化圏は、建国以来、今日までついに「融合」できず、かつては南北戦争の原因となりましたが、今日では<第二の南北戦争>と言われる「文化戦争(カルチャー・ウォーズ)」が連綿と続いています。アメリカ史の累層には人種差別が長大な断層線として深々と走り、それが「文化戦争」の真因なので、オバマの大統領当選によって震源は一層活性化しています。しかし、オバマの当選は、「文化戦争」の暗黒を中和できる輝かしい光芒であることは確かです。

 そこで、クライステネスによる「融合」の偉大さが際立つわけですが、彼の光芒の温床となったアテナイ史の暗黒について少しご披露頂けませんか? 歴史の「暗黒」は、歴史の「光芒」の糠床ですから(09.12.21)。
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No title

 次にアテナイの帝国主義について述べることにしましょう。重装歩兵民主政が、圧倒的に優勢な外国軍の侵入を前に、これに対応する軍事編成の結果として成立したことは既に述べましたが、この民主政が「海の大衆」によって更に進展してゆくプロセスは、同時にアテナイの帝国化をも意味します。つまり、民主化の進展は、アテナイ一国の枠を越えて、ギリシア世界での経済や権力関係によって始めて可能になります。

もともとギリシア本土の南部や島嶼部のポリスには耕地の貧弱な地域が多く、そこでは食糧の自給ができないため商工業に活路を見出さざるを得ませんでした。コリントやメガラ、アイギナ島などがその典型で、早くから海上交易を通じて自国の通貨圏や商圏を形成しました。この面ではアテナイは後進的で、小さな隣国メガラがサラミス島を押さえて南部の諸港を封じていましたし、通貨圏もアイギナの圏内にありました。アテナイの土地貴族はこれらのルートを通じて穀物を輸出していたようです。この流れを変えたのがソロンで、穀物輸出を禁止し、技術移民に市民権を与えて産業を奨励し、南部諸港を解放するため当時タブーであったサラミス島をめぐるメガラとの戦争を再開しました。クレイステネス改革以後、メガラやアイギナの競争相手コリントから20隻の新鋭三段櫂船を譲り受け、アイギナと戦ってアイギナ商圏からの離脱を図ります。たまたま紀元前493年頃、ラウレイオン銀鉱山地域でマロネイア鉱山が発見され、巨額な国庫収入があり、市民に配分される慣習のこの収入は転用され
て、島国アイギナとの戦争に必要な100隻の三段櫂船が建造されました。この軍船は後のペルシア戦争(紀元前479年)でも海戦を勝ち抜く原動力となり、アテナイは一躍ギリシア第一の海軍国としての名声を得ることになります。

この頃までにはアッティカ様式とよばれるアテナイ陶器は、当時のブランド商品であるコリント陶器を圧倒して、エジプトからイベリア半島にいたる地中海各地で層厚く出土し始めます。陶器はそれ自体が輸出品であるばかりでなく、特産のオリーブ油やぶどう酒などの輸出容器でもあり、穀物輸入用の大壷であるアンフォラを含めて、アテナイの商業貿易が拡大したことを物語っています。

ペルシア戦争とその追撃戦初期まで、海上戦闘は陸軍の場合と同様に伝統的にスパルタが指揮していました。たまたま指揮官が艦隊内部での不評から本国に召還され、スパルタ自身も追討戦の継続に関心を失ったため、艦隊の主力を占めていたアテナイが
擁立され指揮官を出しました。しかし、アテナイはこの対ペルシア防衛戦を恒久化するため、ペルシアの脅威を受けるエーゲ海周辺と島々でデロス同盟を結成し盟主になります。傘下265のポリスから年460タラントンの貢納金を徴収して同盟金庫に備蓄し、日当支給を受ける6000人を乗せた30隻の軍船を常時エーゲ海に巡航さ
せてペルシアの報復に備えました。貢納金はアテナイ人によって課金徴収され、離反する都市は鎮圧課金、軍船没収され、軍事植民クレルーコイを派遣されることもありました。度量衡はアテナイに統一され、貨幣鋳造権や訴訟の多くがアテナイに集中されることになります。こうした状況が展開する中で、はじめて「海の大衆」の政治進出が可能になり、民主政の進展(いわゆる急進化)が進みます。こうしたアテナイの帝国化は同盟諸国の反発を生みますが、要所に軍事植民クレルーコイを配し、圧倒的な海軍力を誇るアテナイに対して、軍船や乗組員の供出の代わりに貢納金を拠出するようになっていた大半の同盟国には抵抗するすべがありません。アテナイは恨みを買っていることを承知しており、それ故に支配を緩めることができなくなっていました(ペリクレス演説)。こうした不平不満の声とアテナイ強大化への恐怖から、紀元前432年、スパルタはギリシアを二分するペロポネソス戦争に突入します。デロス同盟からの離脱や反乱はますます多発するものの、アテナイは鎮圧と隷属の強化に成功し、その軍船と豊富な資金力によって戦争自体も有利に進めることができ、和平と休戦を挟んで27年間、戦争を維持します。最後にはペルシアの資金援助もあって、スパルタは紀元前404/3年ついに勝利します。アテナイは長城を破壊し軍船を引渡し海外領土を放棄しますが、海上活動の伝統は生きつづけます。ペルシアとスパルタの戦争でアテナイの将軍コノンはペルシア海軍を率いてスパルタ海軍を破り、ペルシアの資金でペイラエウス港の再要塞化と長城再建を果たし、紀元前386年の「大王の和約」ではかつての領土レムノス島、インブロス島、スキュロス島の領有が認められます。紀元前377年には「第2回アテナイ海上同盟」を成立させ、翌年スパルタ海軍に勝利して制海権を回復します。デロス同盟の反省から同盟は民主的に運営されますが、この制海権の回復で同盟国が増加し、防衛分担金シュンタクシスも増大すると、アテナイは再び繁栄を取戻し、次第に内紛国の内政に干渉し、同盟に取り込み、そこに軍事植民を送り出すようになります。こうしたアテナイの行動と強大化は反発を生み、紀元前357年から2年間の同盟市の反乱(同盟市戦争)では、軍事力で屈服させ駐留軍を配置するものの、半数以上のポリスが同盟から離れます。紀元前338年にはマケドニアに敗北し、アテナイの帝国的覇権は終わります。
(09/12/22)
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