スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ステレ6(越智道雄)

 まさに「戦火の渦中から生まれた民主主義」そのものですね。祖国防衛が独裁者の強制ではなく民衆の意思によってなされたからこそのアテナイ民主主義──そのために民衆は命をかけたわけですから、強固な礎が築かれたことでしょう。しかも、理想的な指導者がその場に居合わせた。とっさの機転で大混乱を回避、あまつさえ冷静に極めて有効かつ犀利な軍事編成をやってのけ、おまけに戦後はその編成を平和時の政治的インフラに転用したクライステネスは、あくまで権力の誘惑に屈しなかった。いや、後世のカエサルも、カリアでの鮮烈な勝利ゆえに元老院の脅威となり、半ばやむをえずルビコンを渡った──つまり、ある程度は独裁者への道をやむをえず選ばざるをえなかったことを思えば、そういう脅威をアテナイ民衆に与えることなく改革を推進できたクライステネスは、どんな人物だったのか? 逸話が残っていないことは残念至極です。

 逆に言えば、外敵の侵攻というどさくさがなければ、クライステネスといえどもこれだけの抜本的改革はやれなかった。3地区の融合的改革の図式は何年も前から彼の脳裏にできあがっていたのでしょうね? そして軍事編成にも活用できることは計算ずみだったのでは? いくら何でも、とっさにこれだけの改革手順をどさくさの只中で組み立てることは無理でしょうから。「名誉ある右翼」の部署を10部族で順番に交代させたのはとっさの機転だったかもしれないけれども、一筋縄ではいかない民衆の多様な心的傾向を熟知していたはずの彼としては、それもあらかじめ想定していたという気がします。

 そんな気がするのも、前に触れた「六日戦争」(1967)との相似です。貴兄のこのステレ冒頭の、侵攻に際してアテナイ人たちが各地域から馳せ参ずる光景は、「六日戦争」を連想させずにはいません。イスラエルの指導者たちは、積年の辛酸から十重二十重に敵国群に取り囲まれた自分たちの独立国家を守り抜く算段をかねてからシステム化していました。この戦争の鮮烈さの一端は私の前のステレで触れました。

 また、3地区の「融合(アナミクシス)」については、私のステレ5で簡単に触れた、そしてステレ7でやや詳しく触れるアメリカの地域文化圏は、建国以来、今日までついに「融合」できず、かつては南北戦争の原因となりましたが、今日では<第二の南北戦争>と言われる「文化戦争(カルチャー・ウォーズ)」が連綿と続いています。アメリカ史の累層には人種差別が長大な断層線として深々と走り、それが「文化戦争」の真因なので、オバマの大統領当選によって震源は一層活性化しています。しかし、オバマの当選は、「文化戦争」の暗黒を中和できる輝かしい光芒であることは確かです。

 そこで、クライステネスによる「融合」の偉大さが際立つわけですが、彼の光芒の温床となったアテナイ史の暗黒について少しご披露頂けませんか? 歴史の「暗黒」は、歴史の「光芒」の糠床ですから(09.12.21)。

越智道雄 ステレ5

 なるほど、二重底の民主政が<走る重装歩兵>と漕ぎ手たちとの機能と活躍の状況の違いに起因したこと、無境界の海洋に乗り出すことが当時の覇権国家への道だったlことは、陸封国家より、海洋国家だったイスパニアや大英帝国の覇権と重なりますね。ただ、どちらかというと陸封国家風のスパルタが最後に海洋国家のアテナイをペロポネソス戦争で破る背景など、他日、伺いたいものです。

 さて、足踏みしましたが、次の課題に進みましょう。

 向山さんは、ステレ2で、クレイステネスの「部族改革」に言及されましたね。血縁の4部族制を地縁の10部族に再編したわけですが、これとアテナイ民主政との関連を展開して頂けませんか?

 人類は、血縁のくびきを逃れ、地縁へと拡大しますが、その地縁にも窒息感を覚えました。ヨーロッパでは、教区(パリッシュ)が最小限の地縁体でしたね。世俗の権力者である領主の館、精神的権力の主である教会、そこのピュー(家族席)は事実上の戸籍でした。また、教会の墓地も強力な共同体意識の膠でした。後は住民の集落と農地、薪や家畜の飼料を得る入会地という構成です。ロビンスン・クルーソーは、船乗りになるべく親を残して教区を脱出するとき、「何か邪悪なものに突き動かされて」と軽い罪意識を抱きました。

 この教区を破壊したのは農地囲い込みの動きでしたが、これは蒸気機関、次いで内燃機関という、それまでは風力、水力、火力、家畜力、人力しか動力(パワー)を持たなかった人類が初めて魔力的パワーを入手、工場が乱立、そちらへ構成員を吸い取られ始めたからです。もはや、クルーソーのような罪意識もなく、人々は教区を離れていきました。しかし、彼らは集団的無意識の中では「何か邪悪なものに突き動かされて」いたわけですね。これが近代化という「欲望の大解放」でした。

 それはさておき、個人を血縁から地縁へと解放するダイナミズムは、当時の内燃機関に相当したかと思われます。これがどう民主政と結びつき、ひいてはアテナイの覇権へと繋がっていったのか?

 実はこれに響き合う合衆国側の地縁性があるのです。最初にヴァージニアへ入植したアングリカンたちは、主にイングランド南部から来たアングロサクスンでした。南部にはサセックスとかウェセックスなどの地名がありますが、これは南のサクスン、西のサクスンという意味です。この地域は最も遅くまで奴隷がいました。その彼らが、アメリカ南部に黒人奴隷を擁する大農園を造り、大西洋岸からメキシコ湾岸をテキサスまで展開、「沿岸南部」という地域文化圏を構成します。次にマサチューセッツに入植したピューリタンたちは、アングリカンへの造反分子で、主にイーストアングリアから来たデイン人でした。北欧人種ですね。このイーストアングリアの知的センターはケンブリッジでした。彼らは入植先で悲惨な魔女狩りから瘧が落ちたように目覚めると、アメリカの民主的理念を高々とかかげ、黒人奴隷制や女性差別との戦い、公民権運動、反戦運動、文化多元主義運動などに邁進していきます。彼らはほぼ同緯度で西進、サンフランシスコ以北まで展開しました。これを「北部帯地域文化圏」と呼びます。

 このようにイギリス本土のどこから入植したかで、文化はかなり違い、後3つ主な地域文化があります。そして大西洋側からの移民の上陸地点ニューヨーク、太平洋側の相似物ロサンジェルスを加えて、ざっと7つの地域文化圏があるという説があるのです。

 もっと驚くべきことは、例えばヨーロッパからの移民、ルーマニアからとしますか、彼らが北部帯に入植すれば、極めて理念的な文化に染まり、沿岸南部に入れば差別的な文化に染まり、ルーマニアの痕跡をそれらのイギリス始発の地域文化が凌駕してしまう傾向が強いことです。

 そして何よりも、西へと突き進んだ点では、どの文化圏も同じでした。このダイナミズムこそ、覇権国家へのドライヴ、すなわち「明白な運命」でした。ジョン・ギャストという画家の絵、「アメリカン・プログレス」では、白いヒマシオン(古代ギリシャの女性のドレス)を翻した巨大な女神が、小さな幌馬車隊や騎馬の西進者たちとともに歩んでいきます。この女神が、ニューヨークで移民たちを出迎える自由の女神の妹でないと誰が言い切れるでしょうか?

 むろん、この地域文化圏の傾向とクレイステネスの部族改革とはまるで異質かと思いますが、多少の照応は見られるかもしれません。その前提でたいへんお説の展開に興味を抱いております。ではどうかよろしく。(09/11/11)

越智道雄 ステレ4

 事情でステレ4が遅れてあいすみません。

 アテナイ下層市民が安価な皮革甲冑でファランクスを組んだり、トライレースの漕ぎ手として参戦、それ自体が民主主義への参画に繋がった次第を、アメリカ独立戦争に反映させるのが私の役目でした。

 「走る重装歩兵」たちは、槍が武器である以上、白兵戦は避けられませんね。しかし、小銃が主要兵器だった独立戦争では、本来なら白兵戦は回避可能なはずでした。ところが、当時のマスケット銃は軽量化すべく銃身を短くしていたので、命中率極めて悪く、300発で敵兵1人というありさまでした。当時の戦闘方法は、鼓手が戦鼓を打ち鳴らす中、銃手たちは横列展開で敵に全身をさらして立て膝撃ちしては前進を繰返し、その間、敵味方がバタバタ倒れます。と言っても、100ヤード以内で1000丁のマスケット銃で各自が3発撃ってやっと3名倒せるというていたらく。つまり、3000発で戦果は3名。だからこその無謀な横列展開だったわけです。生き残った兵士らは、至近距離まで迫るや、たがいに銃剣突撃による白兵戦で相手を仕留めたのです。

 大陸会議軍(アメリカ軍)は、一応は正規軍でしたが、次男坊以下の貧困層で、給与か土地の下賜を餌にかき集められました。将校への絶対服従、戦闘訓練は受けていましたが、数が英遠征軍より少ない始末で(2万に達したことなし)、装備は貧弱、上記の銃剣突撃を敢行しようにも肝心の銃剣が不足していました。ジョージ・ワシントンも、奥地へ英軍を引きずり込み、兵站線が延びきったところを叩く戦法しかとれませんでした。物資不足の最たるものは、1781年晩夏、フランス・カリブ艦隊の支援だけを頼りに、夜陰、密かにニューヨーク戦線の陣を払って急遽ヨークタウン(ヴァージニア南東部)へ南下したワシントンの軍勢は、軍靴すらなく、ぼろ布を足に巻きつけて行軍、地上に点々と足の血の跡が残っていたことでしょうね。ただし、北部徴募の軍は、奴隷身分からの解放を餌に釣られて参加した黒人たちが5分の1を占めたと言います(以後、正規の米軍が人種統合を遂げるには、実に朝鮮戦争まで待たなければなりませんでした)。

 他方、民主主義との関連では、ミリシャ(民兵隊)のほうが肝心で、彼らは自前のロングライフルで林間から英軍を狙撃、すぐ引き下がって後列が前に出て撃ち、次と交代という、信長が長篠の戦いでとった戦法をとりました。銃身が長いので、命中率はマスケット銃よりうんと高く、自身は木陰に身を潜めて銃撃するので、敵影を見定められない英側は怯えました。この樹間からの銃撃という戦法、また夜間に英兵に忍び寄り、喉仏を掻き切る手法は、インディアン相手の戦闘で身につけたものでした。後者の戦法にも、英側は怯えました。

 これに対抗すべく、英側はドイツのイェーガー(猟師)部隊を雇い入れました(ヘッセンとも言いますね)。これは猟師からなる部隊で、猟師相手には猟師でというわけです。しかし、ジョージ・ワシントンは、ミリシャの戦法を嫌い、ヨーロッパ風の戦法に固執しました。それでも、彼は独立戦争最初の本格的戦闘だったバンカー・ヒルの戦い(1775初夏)で勝利したミリシャを讃えましたが、ミリシャが持ちこたえたのは塹壕戦だったからです。緒戦で活躍したミリシャは、ペンシルヴェニアとケッタッキーの部隊でした。ミリシャは自身のロングライフルの命中率ゆえに、身を敵前にさらす戦闘は真っ平御免で、ニューヨーク戦線ではスタコラ退却、この光景にワシントンのミリシャ不信は決定的となりました。また、ワシントンがトレントン(ニュージャージー州都)で捕虜にした1000名のヘッセン傭兵の一人が、「自分らがこの都市を占領したときは王党派だと言った市民が、米軍が来るや、こちらを銃撃し始め、ある女が窓から放った一弾でこちらの大尉が戦死した。アメリカ人ってのは分からない」とこぼしたそうです。これもまた、白兵戦忌避と関連している戦闘達者・u桙ネがら人命は無駄にしない傾向ではないでしょうか。

 だから、南北戦争と第一次大戦は別として以後の近代戦では、合衆国は空爆に力を入れ、地上戦を可能なかぎり回避することが軍の生理となります。最初に核爆弾を開発したのも、味方の損耗を防ぐため、敵の非戦闘員まで巻き添えにして憚らないことが、隠微な形でアメリカの民主主義を下支えしてきたと見ることもできないでしょうか? 広島に投下の3日後、長崎にまで投下したことこそ許せない話です。それでも、今日、命中率99%以上に磨き上げた核ミサイルは、太平洋で原潜に搭載されて、中国河南省のミサイル・サイロに常時照準されていますが、敵兵の人命の損傷は最小限に止める工夫がなされているそうです。ちなみに中国やロシアの核ミサイルは、冷戦時代のまま、命中率20%です。これだと無差別破壊しかできず、敵方の人命尊重などできっこありません。

 さて、ミリシャは中農層が多く、自宅の近辺でしか戦えないし、農繁期はそれさえ無理というのが弱点でしたが、常に兵力不足の大陸会議軍の指揮官たちは、戦闘現場周辺の農民をミリシャとして招集、彼らを大いに頼りにしたのです。戦争初期では、前述のバンカーヒルの戦闘にはるばるケンタッキーからボストンへ遠征してきましたが、原則として近くの戦闘に参加しました。しかし、大陸会議軍の苦戦が続くと、ミリシャも遠征を強いられ、独立戦争の帰趨を制したサラトガの戦闘(1777)には、ニューイングランドのミリシャがニューヨークまで南下、勝利に貢献しました。大陸会議軍に比べて、ミリシャが戦闘を通して進化していった具体例の1つです。ただし、地元を離れたミリシャは、糧食その他を駐屯地の農民から強制徴発せざるをえなくなり、「人民の海を泳ぐゲリラ」ではいられなくなり、戦意も低下します。

 ミリシャは互選で将校を選びましたが、戦闘が終われば隣人同士、従って軍隊の職階は戦闘中以外はなきに等しかったのです。大陸会議軍の将官は、この軍律なき烏合の衆について非難の記録ばかり残していますが、ミリシャは戦闘日誌も残していません。従ってミリシャの研究自体、古代ギリシャ史ほどではなくとも、給与明細書など資料の発掘が遅れ、まだこれからの研究分野と言えます。

 前述のように、大陸会議軍には無産層が土地の下賜を当てに志願し、土地を持つ者がミリシャでした。この構図に、独立戦争前から地域社会とコロニーでは、イギリスに対する反発を梃子に「アメリカ」としての「準国家」像に基づいての個人の権利と責任を機軸とする民主主義がすでに定着していた様子が窺えます。また、遮蔽物抜きの戦闘を回避することも(逃げ出すコツに長けていた)、アテナイの下層市民からなる「走る重装歩兵」の壮絶な突撃とは矛盾しますが、民主主義の端的な表れと言えませんか? 将校の互選も、ある程度、シヴィリアン・コントロールの概念と呼応していますし。指導層も憲法制定会議(1787)でミリシャの指揮権を連邦議会に委ねる条項を設け、シヴィリアン・コントロールの礎石を固めました(第1条第8項)。

 英側は、募兵がうまく行かず、「強制徴募(プレス・ギャング)」までやります。王のために命を賭けるなど無意味だと、オリヴァ・クロムウェルがすでにピューリタン革命(1642~49)で断定、「ミリシャは民選議会に従う」と言い切っていました。王政下での強制徴募こそ、逆にイギリス国内に勃興してくる民主主義を予告ていたことになりますか。

 さて、1776年、英側が敗れたボストンから軍艦で兵員をニューヨークへ移送、ここを拠点にした一因は、オランダ系を味方につける魂胆からでした。もともとニューヨークは「ニューアムステルダム」でしたからね。ところが、近年発掘されたバーゲン郡(ニュージャージー州)のオランダ系の資料では、3分の1から2分の1が「王党派」でしたが、アメリカの宗教大覚醒期を経て新たに生まれた「オランダ改革派」は、ほぼ挙って独立側に味方したらしいのです。英側は、この分裂につけ込みますが、オランダ系は近親憎悪でもののみごとに分裂、相互に凄惨な襲撃を行い、その跡を見た英軍があきれたほどでした。

 王党派へのリンチは、コールタールを全身に塗りつけ、鶏の羽毛をふりかけて、胃腸が破裂するまでむりやり水を大量に飲ませるやり方で、英系の間でも見られました。これは「ター&フェザー(コールタール塗り、羽毛覆い)」と「ウォーターボーディング(水責め)」という拷問方法で、後者は近年もグアンタナモでアルカーイダ容疑者に対して使われ、ショックを与えましたね。ともかく、王党派10万がカナダへ逃れ、今日のカナダのアングロフォン(カナダでの英系の呼称)の中核になります。独立側も、ニューヨーク徴募の連隊をカナダ攻略に派遣しています。

 ところで、オランダ改革派は、フランクリン・ローズヴェルトの宗派だし、横浜のフェリス女学院設立者、メアリー・E・キダーの宗派でもありますね。しかも、1777年、英軍が越冬糧食をこのバーゲン郡から奪う愚を冒したため、オランダ系農民はほぼ挙って独立側についてしまいます。

 当てが外れた英側は、対英貿易が盛んな南部でなら、「王党派」が多いかと当てにして、ニューヨークから軍を割きますが、皮肉にも南部のミリシャが最も獰猛に抵抗、例えばカウペンズの戦闘(サウスキャロライナ/1781)では、ミリシャは「逃げ足の速さ」の悪評を逆に戦術に転用、相手を欺いて鮮烈な勝利を収めます。興味深いことに、ウィリアム・ラミーが1845年に描いたこの戦闘の絵では、騎乗した黒人奴隷の若者が馬上の英軍将校を撃ってミリシャの大佐を救う光景が描かれています(若者は私設従卒として参戦したのか?)。ともかくこの結果、英軍はついにはヨークタウンに籠城させられ、フランス・カリブ艦隊の来援もあって、トーマス・ネルスン知事麾下のミリシャ3000名は正規軍の右翼を担って戦い、ついに英軍は降伏、独立戦争は終わり、民主主義に基づく独立革命(アメリカン・レヴォリューション)は戦火と戦死の流血の只中で成就します。これがアテナイとの照応ですが、同時にアテナイがデロス同盟でアドリア海、地中海の覇権へと踏み出したように、合衆国もまた20世紀半ばの覇権国家へと踏み出したわけです。

 南部のミリシャが強かったのは、常時、奴隷の造反に対する自警団組織が基礎になっていたのかもしれません。後に南部が南北戦争に敗れると、KKKとか「白椿騎士団」その他多くのゲリラとなって蘇るのですが。今日、ミリシャは各州の正規兵となり、大統領によって「連邦軍化」され、今回のイラク戦争のように海外へも派兵させられます。(09/11/7)

越智ステレ3

 アテナイ民主政創出の重要な契機となる、平民の戦闘ぶり、詳細がよく分かりました。

 さて、私のステレ1の最後に、折角アテナイ型の直接民主主義への回帰を可能にしてくれたインターネットが悪質な書き込みの掃きだめになっているというグーグルのトップの発言です。つまり、民主主義のモボクラシー(暴民政治)への瓦解ですね。

  09年10月6日夜出た、NHK/BS1「きょうの世界」で素材に使われたBBCの画像で典型的な場面に出くわしました。ただいまオバマ政権が国民皆保険法案を通過させるた めに共和党のなりふりかまわぬ潰し攻撃にさらされ、民主党のリベラルや中道派はいらだっています。

 トルーマンとクリントンは、病院・医師会、保険会社、製薬会社の猛反対で国民皆保険制度創出に挫折しました。1994年9月、ヒラリーの獅子奮迅の突撃が葬り去られたことはご記憶かと思います。1965年、ジョンスン大統領は、前年の公民権 法に次いで高齢者加盟のメディケア、低所得層加盟のメディケイドを通過させ、ヴェトナム戦争でしくじらなければ偉大な大統領としてあがめられたはずでした。しかし、上流層、そして働き盛りの中所得層などは高い掛け金を払って民間の保険に加盟 するしかありませんでした。従って、未加盟者は4600万人、このまま放置すれば2019年には未加盟者数が5400万人に達し、結局は国力の減退を加速します。 共和党や右派がなぜ国民皆保険に反対なのかは、それが<大きな政府>を招来するからです。「オバマはすでに倒産に瀕した銀行や証券会社、自動車メーカーなどに国 費をカンフル注射したうえに今度は健保か! 許せん!」 というわけです。そして やれ「政府の保険機構によって民間保険会社は潰される」、やれ「メディケア予算を 削って新保険へ回す(これは事実)から、高齢者は安楽死を選べと言われる(しかし全米最大の高齢者組織AARPはオバマ案に賛成)」、やれ「不法移民の保険コストまで 負担させられる」等々、歪曲した攻撃を繰り返しては国民を、惑わし、連邦下院での 通過を遅らせました。これはモボクラシーです。

 というわけで昨夜のBBC画像で、オバマが下院演説で「不法移民は対象外です」と言ったとたん、共和党のジョー・ウイルスン議員(サウスキャロライナ)がいきなり「ユアラ・ ライアー!」とわめいたのです。
オバマの背後に座ったバイデン副大統領、ナンシー・ペロシ下院議長の笑顔は一瞬にして驚愕の表情に変わり、暴言議員をにらみつけ、 副大統領は顔をしかめてうつむき、首を振りました。
ペロシ議長はまだ相手をにらみ つけたままです。それもそのはず、「ライアー呼ばわり」は、欧米では昔なら決闘に 繋がりました。しかしオバマは、まじめな表情のまま、「イッツ・ノット・トゥルー」とだけ答え ました。これに切れたのが、民主党の重鎮カーター元大統領で、夫人と同席の記者会 見で極めて遺憾と断言、「この国民の一部にはアフリカ系アメリカ人は大統領になってはならないという偏見がしみついた者がいる」と言い切ったのです。巷には、オバマの写真にヒトラーのちょび髯を描き込んだり、彼の顔を白く塗り変えたりしてデモするモボクラシーの輩もいます。

 つまり、オバマは以下のことを心得ていたのです。(1)人種差別がアメリカ史を 断層線として貫いて
おり、何か問題(今回は健保問題)が紛糾する度に断層線に振動が伝わり、何層倍にも増幅されてきたこと、(2)従って共和党や右派は、健保問題をこの断層線に接触させようとあらゆる汚い手口を駆使してきたこと、(3)カーターが無思慮にもみすみすその手に乗ってしまったこと。  共和党は待ってましたとばかり、「大統領の批判をする度に人種差別だと言われちゃめちゃくちゃでござりまするがな」(1994年11月、共和党に40年ぶりの上下両院支配をもたらし、その威力をバックにクリントンを痛めつけすぎて高転びに転んだニュート・ギングリッチ)、もっとモボクラシーの裏の仕組みを露呈したのが、アフリカ系の共和党全国委員長マイクル・スティールの以下の発言、「人種カードを切ってくるとは、民主党は後ろ暗い手を使って健保を処理する魂胆が見え見えだ」でしょう。  多民族社会アメリカでのモボクラシーの極致は、「人種カード」です。これを先に切ったほうが負けになります。だって人種差別発言は<ノンPC>として即刻処罰されますからね。ウイルスン議員の「ライアー」発言は、民主党側に健保を断層線へ接触させる誘いの手でした。カーターのみじめさに比べて、ギングリッチの上記の発言はぐんとしたたかです。これがカーターがうかうかと切った「人種カード」への切り返しで、この応酬のしぶとさこそ、 おバカな差別的白人には強さと映り、票が集まるのです。もっとしたたかなのは、黒人を共和党全国委員長に祭り上げて「人種カードを切るとは民主党は汚い」と言わせることです。スティールは、オバマにはユダに当たるでしょう。

 最後に、オバマは共和党と右派によるモボクラシー的攻撃をどういなしたか? 5つのテレビの日曜番組に出て、健保を差別と切り離し、最後にウイルスン議員をこう切ってすてました。「15分間だけ有名になりたければ、一番簡単な手口は誰かに対して無礼になることですよ」。みごとですねえ! ひょっとして、カーター発言も、 オバマの優秀なスタッフによるやらせで、共和党側の手口の逆手をとる高等戦術で、オバマがみごとに総仕上げをやったのか? 健保は今週にも上院財政委員会を通過、上院本会議ですったもんだのあげく、年内についに通過、法制化される見通しです。だって、民主党上院議員は現在61名、これは共和党による議事妨害演説を禁じる60名を越えているのですから。どうにか不況の拡大を押さえ込み、国民皆保険を成立させただけでもオバマ政権の浮揚力は高まります。モボクラシーに対するデモクラシーの勝利、彼の冷徹な状況判断力の精華です。

 ネットにあふれるモボクラシーもこのように辛抱強く対応し、悪質書き込み者に匿名性の中でも恥と自制の感覚を取り戻してもらうよう誘導するしかないでしょう。

 現在進行形のモボクラシー例なので長くなりました。では、向山さん、アテナイのモボクラシーの例を1つご紹介下さい(09/10/7)。

ステレ2

なるほど。民主政と覇権国家は元来折りあわないと誰もが思い込んできた常識が覆されますね。日本人は、軍国主義という覇権主義に彼我の膨大な人命を犠牲にしました。ところが、肝心の民主主義にはほぼ一名も犠牲にしなかった。ここのところは、ルース・ベネディクトが『菊と刀』(1946)で日本人の最大の弱点として指摘しておりますね。日本人は軍国主義が失敗で、世界に対して大恥をかいたから、今度はたなぼたの民主主義で世界に対して大恥をすすごうとした。「恥の文化」というわけです。しかし、命を間違った大義にかけたとはいえ、軍国主義がだめなら、今度は民主主義だというのでは、日本の民主政には大義としての重みはいつまでもついてこない。では、日本人には優位原理がなく、とにかく生き延びるという相対的な部族文化しかないのでは?というわけです。彼女は、それも日本に「罪の文化」がないからだとまで言い出します。この点はいずれ詳しく触れたいです。

 アメリカ側のアテナイとの照応として、独立戦争(彼らはアメリカン・レヴォリューションと誇らかに呼んでいる)が合衆国の民主政に大義としての焼きを入れる光景についてはすぐ触れるとして、もう少しファランクスの戦闘方法の実像、そしてクレイステネスの改革と民主政の因果関係に分かり易く触れて頂けませんか? またクレイステネスの人物像が分かれば、アテナイの民主政が彼に具象化されます。

 それから同日3方面作戦は、アラブ連合(エジプトとシリア)とヨルダンから、西、北、東の三方から攻め寄せられたとき、わずか六日で撃退したイスラエルを想起させますね。1967年の<六日戦争>、第3次中等戦争。政治形態としては、民主政のイスラエルが独裁政の3国を相手にしたわけでしたが、こんなジョークが生まれました。「神は六日間で世界を造り、七日目に休まれた。イスラエルは六日間で戦いに勝利し、七日目に休戦した」。また、ナセル大統領は、国連に対してこう愚痴った。「これは不公平だ。イスラエルにはユダヤ系が200万人もいるのに、こっちには一人もいない」(これもむろんジョーク。200万は当時のイスラエル人口)。必死のアテナイが救国の戦法を民主政の渦中から産み出したように、イスラエルはジェット戦闘機1機を1日に4回出撃させる高速再装備・再装填システムと戦闘パイロットの交代要員をそろえ、間断なく出撃させたので、敵側にはイスラエルの空軍力が4倍に見え、米英空軍が支援していると勘違いしました。敵側は1機は1日1回の出撃がやっと。ところが、イスラエル空軍は、敵の滑走路をズタズタにする爆弾を先に投下、スクランブルできない敵機を据え物撃ちで仕留めました。

 3方面の敵を同日に撃退したときの指揮官はどんな人物でしたか? マラトンの戦いでは、イスラエルのダヤンのような総司令官はいたのですか?(09/9/29)
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。